形式的には主筋である豊臣家をこれ以上別格扱いすることを許容出来なくなった徳川家康は、慶長19年(1614年)に起こった方広寺鐘銘事件をきっかけに秀頼と決裂し、大坂冬の陣が勃発する。
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豊臣家は福島正則、加藤嘉明など豊臣恩顧の大名に檄をとばしたが大坂方に参じる者はなく、福島が大坂の蔵屋敷にあった米の接収を黙認するにとどまった。一方、関ヶ原の戦いで主家が西軍に組し取り潰しにあい放浪していた数万の浪人たちや真田信繁(幸村)、後藤基次、長宗我部盛親、毛利勝永、明石全登ら浪人衆が大坂城に入城した。浪人は非常に士気旺盛ではあったが寄せ集めなので統制がとりにくく、しかも浪人衆と大野治長・淀殿らが対立し、最後まで対立は解けなかった。例えば真田信繁などが京都進撃を唱えても、大野治長などが頑強に反対し大坂城篭城に決するということもあった。
緒戦では木津川口、博労淵などの大坂城の周辺の砦が攻略され、残りの砦も放棄して大坂城に撤収、野田・福島の水上戦でも敗れる。ただ今福・鴫野の戦いでも敗れてはいるが、佐竹義宣軍を一時追い詰める抵抗を見せたため大坂方強しと周知される。
大坂城での戦闘では浪人衆の活躍や大坂城の防御力により、幕府軍は苦戦、城内に攻め入ろうにも撃退ばかりされ、特に真田丸・城南の攻防戦では幕府方が手酷い損害を受ける。そこで幕府軍は城方に心理的圧力をかけるべく、昼夜をとわず砲撃を加えた。本丸まで飛来した一発の砲弾は淀殿の近辺に着弾、侍女の身体を粉砕し淀殿を震え上がらせたという。
しかし次第に豊臣方、幕府方双方の食料や弾薬が尽きはじめ、この時点で家康は和議を提案。秀頼は当初、和議に反対したといわれているが、淀殿の主張などによって和議が実現した。